
深見 利佐子さん
所属:清水建設株式会社 技術研究所 都市空間技術センター 歴史建造物グループ
修了学位プログラム:人間総合科学研究科 世界文化遺産学専攻
取得学位:博士(学術)
修了年度:2023年
筑波大学に学群から博士後期課程まで約10年間にわたり在籍。学群時代は人文・文化学群人文学類にて考古学・民俗学を専攻していたが、学びを深める中で保存科学に出会い、大学院では世界文化遺産学専攻の保存科学研究室へと進学した。
専門は文化財を対象に自然科学的な手法を用いて劣化現象のメカニズムを解明し、それに適した保存・修復方法を研究する「コンサベーションサイエンス(文化財保存科学)」。
2023年に博士号を取得後、同年より清水建設株式会社の技術研究所(都市空間技術センター 歴史建造物グループ)に研究員として所属。最近は「近代化遺産」や「非破壊測定(文化財を傷つけずに現状を把握する技術)」、「部材の健全性評価」などをキーワードに研究開発に取り組む。
――博士課程での研究内容を教えてください。
博士課程では、主に「レンガ造の文化財」を対象として研究を行いました。近代(明治・大正期)のレンガ造の文化財は近年注目を集めていますが、当時のレンガの特性については、未解明の部分が多く残されており、進行する劣化に対する処置も確立していない状況でした。
博士研究で私が主に取り組んだ柱は3つあります。
まず1つ目は、自然科学的な手法を用いて歴史的レンガの特性を把握することです。現代のレンガと違って明治期のレンガには標準規格が存在しなかったため、製造工場や地域、使用された原料によって物性に大きなばらつきがあることを明らかにしました。
2つ目は、実際の遺跡における劣化状況と挙動の把握、そしてその要因の解明です。横須賀市にある猿島砲台跡へ3年間にわたり毎月通い詰め、構造物内の温湿度測定や壁面からの崩落物の回収・化学分析といった地道なモニタリングを続けました。これにより、湿度が上がるタイミングでレンガが粉状に崩れ落ちること、そしてその劣化は、レンガに含まれている塩分が要因のひとつであるということを突き止めました。
そして3つ目が、その劣化を抑えるための保存手法の開発です。私は土木分野で使われていた「電気化学的脱塩工法」に着目し、電極を取り付けて電気を流すことで劣化要因となる塩分をレンガの外へ流し出すアプローチを試みました。歴史的レンガは劣化している箇所が点在しているため、局所的に適用できるモデルを作って通電条件や電極の種類を比較検証した結果、銅を電極として用いた場合に最大73%の塩分を除去でき、処理後の塩の再析出を防げることを確認しました。
博士論文をまとめる上では、他分野の知見を取り入れて誰もやっていないアプローチを試みる「独自性(オリジナリティ)」と、課題発見から解決に至る「論理的なストーリー立て」が非常に重要であると実感しました。
――現在の職場ではどのような仕事をしていますか?
清水建設はいわゆる総合建設会社(ゼネコン)であり、建築だけでなく土地開発やエンジニアリング、宇宙開発事業まで幅広く手掛けています。ゼネコンの中でも清水建設は、歴史的建造物の修理や社寺建築の施工・修復を専門に担う部隊を社内に擁している点が大きな強みです。首里城の復元整備、熊本地震で被災した阿蘇神社楼門の修復、代々木第一体育館(施工)や旧大社駅の保存修理工事など、数多くの有形文化財の保存に関わっています。
技術研究所には約200名の研究員がおり、専門は建築や土木にとどまらず、薬学、医学、化学、物理など多岐にわたります。例えば、クリーンルームや病院建築には医学・薬学の知識が不可欠です。だからこそ、私のような文化財の保存科学の専門家が活躍できる場が存在します。
就職活動の段階から「現在の対象はレンガだが、研究アプローチや評価手法自体は石材やコンクリートなどマテリアルが変わっても応用できる」と伝えていました。
会社に入ってからの主な研究や業務ですが、博士課程で扱っていたレンガから対象を広げ、現在は「石材」を主軸とした研究に取り組んでいます。昭和初期以降に建てられ、外装に石材を用いた建築物が近年文化財に登録されはじめ、そうした建物が30年ほど経ってどう劣化・変色していくのか、その初期挙動の解明や、建物を傷つけずに状態を調べる非破壊測定手法の確立を進めています。
また、自身の研究テーマを深めるだけでなく、現場や施主様からのご相談に応える「コンサルティング業務」も重要な柱の一つです。「所有する建物を保存したいので劣化原因を調べてほしい」といったご依頼や、旧中野刑務所正門の曳家工事に伴う「大正期のレンガの物性調査」といった現場からの具体的な要請を受け、実際の調査・分析や報告書の作成を自身の研究と並行して行っています。
――博士課程での経験が今の仕事にどう生きていますか?
会社に入ると、複数の研究テーマや突発的なコンサル業務が並行して動くため、マルチタスク能力が求められます。学生時代に自身の研究だけでなく、指導教員のプロジェクト補佐やTA(ティーチングアシスタント)などを経験していたことが、現在のタスク管理やスケジュール調整にそのまま生きています。
学生時代からずっと大切にしているのが、実際に現場へ足を運んで文化財そのものを観察し、現場の方々の声を聞く「現場主義」です。研究すべき課題の種は常に現場に落ちており、今でも直接足を運んで困りごとを聞き取ることが、新たな研究テーマの種につながっています。
また、自分の専門分野だけに閉じこもらず、土木など異なる分野の技術や知見を柔軟に取り入れる姿勢も意識しています。他分野に目を向けることで研究に新規性や独自性が生まれ、より魅力的なアプローチへと発展させることができるからです。
そして社会に出て最も重要だと痛感しているのが、専門的な難しい概念を専門外の方にいかに分かりやすく伝えるかというコミュニケーションの姿勢です。どれほど深い専門知識を持っていても、現場の職人さんやお施主様、会社の経営陣に伝わらなければ、研究成果が社会に届くことはありません。専門外の方にもしっかりと届く言葉で説明する力を磨くことを、日々意識しながら業務に取り組んでいます。
――学生時代にしておくとよいことはありますか?
研究費(予算)の申請や管理です。学生時代から研究費の公募に挑戦し、予算要求ややりくりの感覚を養っておくことをおすすめします。
研究を進める中で「この分析をしたいけれど大学に機器がない」という場合、外部の分析機関に依頼することがあります。その際、予算が50万円なのに対して実際の費用が70万円ほどかかってしまうことがありました。そうした場面で価格や条件をすり合わせる交渉力が培われました。
――なぜ民間企業への就職を選んだのですか?アカデミアへの道は考えませんでしたか?
元々は大学教員も視野に入れていましたが、「現場の経験も実社会の課題も知らないまま若手が教壇に立っても院生には説得力がないのではないか」と考えました。まずは民間企業で多くの現場に触れ、経験や実績を積むことを優先しました。現場の課題はなにか、そしてそれらを解決する力を高めることができると思ったからです。将来的に別のステップへ進むか会社に残るかは、現在の実績を積み上げてから選択したいと考えています。
――博士課程を目指す・在籍するみなさんへキャリアパスのアドバイスをください。
民間企業の研究所では、「自分がやりたいこと」と「企業や現場から求められるニーズ」に乖離が生じることもあります。しかしそれをネガティブに捉えず、「自分の専門性をどう生かして、課題解決と自分がワクワクする研究を両立させるか」という挑戦として捉えると非常に面白くなります。また、「この専門だからこの業界」と自分の枠を決めつけず、広い視野でキャリアを考えると意外な業界で重宝されることがあります。
私は学生時代に柔道部に所属し、東京オリンピックに出場する経験を得ました。しかし、素直な実感として「博士号を取得することは、オリンピックに出るよりもはるかに苦しく大変だった」と感じています。競技はゴールのイメージが湧きやすいのですが、論文執筆は考察の沼にハマるとゴールが見えなくなるためです。
それでも、心血を注いで博士論文を書き上げたときの達成感と、研究者として得られた自信はオリンピック出場以上のものがありました。博士の道は「修羅の道」とも言える大変な道のりですが、それを乗り越えた先で得られる価値は非常に大きなものです。ぜひ強い心を持って、諦めずに走り抜けてください。